ごぶごぶごぶの日記

お金をかけない東京散歩ほか、走ること食べること思うことを書いてます

8.15に寄せて 戦争体験者に聞いた話

南洋の良く晴れた空と静かな海。

インドシナの港に停泊していたその時に自分が乗員していた巡洋艦が米軍の戦闘機に襲撃を受けた。突然の事態で応戦しようにも隊員はほぼ戦闘配置についていない状態だった。甲板にいた連中は全員一人残らず、空中から雨のように打ち込まれる機銃や大型の魚雷で打ちのめされ、千切れた腕や胴体や首が、「餅投げ❇︎」の餅みたいに宙に舞い、それが次々と海に落ちていくのを見た。その中にさっきまでそこにいた上官の生首があった。黒いススだらけの顔面に開いた両の目はカッと大きく見開き、青く晴れた空を睨みつけていた。

自分は爆弾の衝撃でめくれ上がり、豆腐ほどの厚さもある焼けた鉄板の影に隠れるだけで精一杯で何もする事ができなかった。鉄板の熱で右足を大火傷したのだが、隠れている間は恐怖で火傷の熱さも何も感じなかった。

低空飛行で飛び去って行く戦闘機の尾翼には水着姿で微笑む女の絵が描いてあった。それを見た時、アメリカとは一体どんな国なんだ?聞いていた話とは全く違うみたいだ。お国のためにという思いひとつでこんな遠くまでやって来たが、経済的にも物量的にもその他あらゆる面で日本とアメリカの間には、アリと象ほどの大きな差がついており、そんな国に日本が勝てるわけがないだろう。と思った。

今でもあの日のことを夢に見る事がある。

それとは逆に戦地にいた時は、家族と過ごすやさしい夢ばかりを見ていて、目覚める度に例えようのない陰惨な気分になる事を繰り返していた。

ここから生きて祖国に帰れる気がしなかった。(祖父の弟さんから聞いた話)

 

❇︎餅投げ…西日本⁈に伝わる慣習で、一戸建ての棟上げ式の際に、近所に住む人たちや親戚を呼んで「餅投げ」と呼ばれる儀式を行います。施主やその家族が屋根に登って、お祝いに来てくれた人たちに向けてお餅やお菓子、お金を投げる。集まった人たちはそれを上手くキャッチしたり拾ったりします。今はあまりやらないそうですが僕が子供の時はあちこちでその小さなお祭りみたいな楽しい光景が見られました。


京城[現ソウル]から日本への引き揚げ船が出港する釜山の港まで、幼い子どもを連れて夜通し歩いた。とにかく後方から迫って来ているという、姿の見えない数千ともいわれるソ連兵が恐ろしくてたまらなかった。彼らに捕まったら最期、日本人を見つけたら服や金目の持ち物を没収されるだけではなく女子供も容赦なく、捕まったら殺される。それだけではなく、その殺された人間の皮膚までも剥がして、地面にそのままの姿で無残に捨てられると聞いた。私の命にかえてでも子供は絶対に守り抜かないといけない。だから捕まらないように、何も食べず飲まずに昼も夜も必死に歩き続けた。

釜山の港に着いた時、引き揚げ船を待つ日本人の数の多さに驚いた。色のない服を着た無表情の日本人の列がどこまでも続いていた。船の切符をもらうために半日ほど列に並んでいた。歩いてここまできたのに半日も立ったまま待たされた。切符をもらうと疲れ果て地面に座って自分たちの名前が呼ばれるまで、眠ってしまうのを我慢しながら順番を待った。

船に乗り込むには甲板から吊るされた縄ばしごを登るしかなかった。かなり高い位置まで登らないとならず、前を登っていく子供は小さな手と足を懸命に動かし、泣きながら登っていた。大人の私でも足がすくむような高さなのに子供にしたら想像以上に怖かっただろう。

無事に帰ることができて良かった。

(祖母から聞いた話)

 


花火のようだった。色のない白い花火。巨大な銀色の機体をしたB29から投下された後にそれは空中でパッと眩しく、まるで花が開くように見えたからだ。遠くで見るだけだととてもキレイだったけれど、焼夷弾と呼ばれるその白い花火は佐世保の街を跡形もなく焼き尽くした。

大空襲の翌朝、暗く狭い防空壕から外に出たら、真っ黒に焼けた街並みがどこまでも続いていた。焼けてしまった小学校の近くに、黒く丸焦げになった子供の死体が転がっていた。この子の両親はこれを見てどう思うのだろうか、これがもし自分の幼い弟だとしたら、、と想像がそこまで至った瞬間に、悲しみとも恐怖とも違う、憎しみの殻を突き破って出てきた悪魔のような黒々しい感覚が自分の内側の隅々までを真っ黒に塗りつぶしてしまった。その日から私は口がきけない子供になってしまった。

(小学校の担任の先生が語った戦争体験)

 


女性なのに衛生兵として志願して戦地に渡った叔母は、敗戦後、フィリピンからいつ沈没してもおかしくない半壊した輸送船に揺られて帰ってきた。

ボロボロの軍服と、頭には汗や泥で汚れきった国民帽を被って彼女がウチの玄関に立った時、それが誰なのか全くわからなかった。他人なのに図々しく無作法な兵隊さんだと思った。男なのに随分と小柄な兵隊さんだと思った。その人は帽子をとると、ボツボツとあちこちが脱毛した不恰好な坊主頭が現れた。

それが戦地から帰ってきた叔母だと認識できるまでに時間がかかった。

なぜ坊主頭なのかと聞いたら、男の格好をしてないと仲間からも敵からも襲われるからだ。と答えてくれた。

(母から聞いた親戚のおばさんの話)

 


原爆投下直後の広島市広島県産業奨励館(原爆ドーム)近くの橋の上で撮影された写真について。

ーこれは原爆が投下されてから3時間ほど経った時の街の様子をとらえた写真です。薬品や飲料水を求めて沢山の人々が列をなしているのがわかります。皆さんボロボロになった服や布をまとってるように見えますが、これは服でも布でもなく人間の皮膚です。全身の皮膚が原爆の熱風によって焼けただれて剥がれ、腕や背中、お尻からぶら下がっている状態です。

全身大やけどで、2、3日もすれば剥がれたむき出しの部分からは大量の蛆虫がわいてきます。最初のうちは1匹1匹を指で潰して殺すことができますが、そのうち体力がなくなり潰す気力もなくなると、蛆虫にまみれて苦しみの声をあげる気力すらなく、静かに死んで行く方々が沢山いました。

(広島原爆資料館被爆二世の職員の話)

 

今日は8月15日なので、あの戦争について主に子供の頃、実際の戦争体験者の方に聞いた話、また人づてに聞いた話を文章にまとめました。

僕が生まれた昭和47年は戦後27年で、1951年の経済白書に「もはや戦争ではない」という言葉が記された年からずっとあとの時代でした。もちろん戦争の経験などなくディズニーランドのような国家観の伴わないゆらゆらとした時代に生まれ育った人間です。

長崎、佐世保という土地柄なことも手伝ってか、自分が子供だった頃にこういう話を戦争を体験した大人たちから聞く機会が良くありました。

戦争の陰惨な記憶など振り返りたくない。というのが彼らの本音だとは思うのですが、子供だったボクには話しやすかったのかもしれないです。

高度経済成長の終わりに差し掛かる、明るい未来を誰もが信じた煌めく時代の日本に生まれ、それからさらに46年。

その記憶は風化されていきそうで、それをどうしようとかそんな大それたことではないのですが、思い出したくもないことを、わざわざ伝えてくれたことに感謝をし何より忘れてはいけないと、そう思い。

だから書いてみたまでです。

 

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