ごぶごぶごぶの日記

お金をかけない東京散歩ほか、走ること食べること思うことを書いてます

お台場と170年前の日本人

走ってる途中のレインボーブリッジからのお台場の景色を眺めてると思うことがあったので書いとく。
五反田大崎品川あたりにはかつて城南五山と呼ばれる五つの山があり、そこは江戸期に有力とされた大名屋敷が多くあった地域でした。敷地を大きくとったその名残もあり現在そこは都内有数の高級住宅地となっている。その一つの池田山には皇太后美智子様の生家があり、今はねむの木公園という名前で住人の憩いの場となってたりする。
「八ツ山」という城南五山のうちの一つが当時の海側にあるのですが、現在はその土地に品川プリンスやグランドプリンス高輪が建っているんですよね。つまり山ではないワケです。その山はどこに行ったの?その答えは今から約170年前の日本にさかのぼります。ペリー艦隊が来航して開国を迫られた江戸幕府は、それまで鎖国していたが故に見えなかった外側に拡がる世界を意識することになり、同時に日本人も弱肉強食の生きるか死ぬかの厳しい世界があることを知ることになる。
西の果てにある欧米列強の脅威はインドや中国といったアジアの大国を飲み込み、タイ以外のアジアの国はほぼ列強の手に落ち植民地状態となっていた。その現実に猛烈な危機意識を感じた日本人は国を守るために革命(明治維新)を起こし開国をし、文明開化、富国強兵、殖産興業を猛烈なスピードで押し進め、猿マネと言われて笑われようが列強並みの経済力と軍事力を手に入れるためにそれはそれはもう必死だったワケですよ。
その富国強兵の一環がこのお台場で、お台場っていうのは本来フジテレビやビーナスコートがある埋立地のことではなく、外国艦隊の侵略を想定した有事のために、敵艦を砲撃する砲台を置く埋め立て地のことを指します(砲台場が転じてお台場)。
1回目のペリー来航から1年も経たずに6つのお台場がほぼ完成してるっていうことに驚く。火薬はあっても今みたいに山を削る精度の高いダイナマイトや重機や土石を運ぶ大型トラックやベルトコンベアもない時代です。ほとんど手掘りで牛や馬で土を運ばせたのでしょうけど、たった一年ですごくないですか?
たった一年でお台場六つも作るというその悲壮感。ヒリヒリするような悲壮感を感じてしまうんですよ。列強に犯されるという妄想がとてつもなく恐怖だから、国を守るために政治家や官僚が旗を振りその下で一般市民も一丸となって山を削ってその土を運んで、しかもほぼ手作業で。しかもたった一年で。お台場を見ると涙ぐましいです。当時の日本人、どんな気持ちだったのでしょうかね。
そんな国がですね、。ウクライナで戦争が始まり日本も攻められたらどうなるの?って議論が湧き上がった時に国を捨てて自分の身を守るために逃げるって平気で言う人が大半だっていうですね。。そんな状況なのですよ。昔の日本人は全部が偉かったとは言いませんが、ボクも戦争なんて怖いしできたら避けたいですが、深く考えることもなし「逃げる」って言う人のことはなんだかね。
ここでお台場を作り上げた人たちはどう思うんでしょうね。ってレインボーブリッジからの景色を見ながら考え込んだっていう話ですよ。

 

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